忘れがたい美貌

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18歳のわたしが受験で雪の降る仙台の旅館に居た1972年2月20日に、アメリカ
で美しくて著名な女性物理学者が65歳で亡くなった。その9年前の1963年に女性
で二番目のノーベル物理学賞を受賞したジョッペルト-メイヤーである。当時は受験の
ことで頭がいっぱいで、この事実が報道されたかも知れないが全く記憶にない。この
名前に初めて出会うのは学部の4年のとき、彼女の論文を読むよう指導教官に言われた
からである。

Maria Göppert は、1906年に現在のポーランド領カトヴィツェ(当時はドイツ領)
に生まれ、4歳の頃父親が小児科医になるために家族でゲッティンゲンに移住した。
当時にしても女性でゲッティンゲン大学に入学するのは困難であったが、数学を専攻と
して1924年に入学する。女性で数学で身を立てることは当時としても難しく、彼女
は著名なマックス・ボルン(オリビア・ニュートン=ジョンの祖父!)の講義を聞くう
ちに、物理学へ専攻を変える。この頃、彼女の周りには物理と数学の分野でほぼ伝説に
なるような著名な人々いて、彼らと知り合ったことが、彼女の一生に大きな影響を与え
た。ヒルベルトは近所に住んでいたし、フランク、ワイル、ランダウ、コンプトン、
フェルミ、ハイゼンベルグ、フォンノイマン、パウリといったオールスターに囲まれて
いた。わたしは後年、何かの論文でこの頃に撮影されたと思われる写真を見たことが
あって、科学史に残るような男性陣に交じって一人の美しい女性が帽子をかぶって振り
向いて微笑んでいるのがまさしく彼女であったことを覚えている。インターネットがあ
る現在、いろいろ検索してみてもこの写真に出会うことはできなかった。

1930年に、原子における二光子遷移についての論文で学位を得る。この着想はどこ
から来たのか分からないが、当時の分極率理論や分散についての理論から見ても、画期
的なものだった。後年、ウィグナーは「明快さと具体性の傑作」と評している。当時は
この理論を実験で確かめることは出来なかったが、やがてレーザーが発明され、強力な
光源として分光学に応用されて、彼女の理論が実験で証明されたのは1960年代に
なってからである。わたしが学生だった頃の1970年代では、実験室で手造りの窒素
レーザを励起源とした波長可変色素レーザを使って、極低温の有機物結晶の二光子励起
の蛍光励起スペクトルを観測して学位を得た先輩がいたのを思い出す。

学位を得ると同時に、当時、フランクのところにアメリカから共同研究しに来ていた化
学者メイヤーと結婚して、アメリカに渡る。そして、Maria Goeppert-Mayer となる。
ゲッパート=メイヤーは英語読みで、日本のWikipediaにはこの名前で載っている。アメ
リカではふさわしい職業的地位をなかなか得ることは出来ず、ほとんどボランティアか
パートタイムで仕事をしながら論文を発表し続けた。1960年になってやっと、U.C.
San Diego に教授として迎えられた。シカゴ大学やアルゴンヌ研究所時代に原爆の父と
呼ばれるテラーと知り合い、原子核理論について研究するうち、原子核構造で、中性子
と陽子の数がある特別な場合だけ著しく安定な核を構成するという、マジックナンバー
の謎を解明する理論を提出し、同時に独立で同様な理論を出したドイツの J. Hans D.
Jensen とともに1963年にノーベル物理学賞を受賞する。もう一人はウィグナーで
ある。

原子核理論の方はわたしにはまったく関係ないが、指導教官に読むように言われた論文
は、1938年に JCP に現れた Sklar との共著  Calculations of the lower excited
 levels of benzene. と題する論文です。これは今でいうところの物理化学または量子
 化学に相当するもので、彼女の論文一覧を見ても、ポツンと他の分野から離れている不
 思議な論文です。しかし、数学的に厳密で今でいうところの分子軌道論、パイ電子論、
 芳香族性、共鳴理論などの出発点になる重要な論文です。表記の仕方の古めかしさ、
 数 学的な厳密性もあって、読むのには苦労したが、それだけの価値があったと思って
 いる。 この苦労があって、ジョッペルトメイヤーの名前と、その美貌は現在までも忘
 れがたいものになった。キュリー夫人は日本ではとても有名ですが、メイヤーの名前
 を知っている人は少ない。とても残念に思う。わたしが生まれた年、1953年に国
 際理論物理学会が日本で開催され、彼女も来日している。